けせん(気仙)に学ぶ



【けせんの魅力を世界へ】
美しい国「けせん」~気仙の自然・文化・暮らし~

公開日:2020/04/14(5分46秒)
3.11東日本大震災を乗り越えて気仙に暮らす人々のレジリエンスを美しい映像にしました。

けせん(気仙)は、岩手県大船渡市・陸前高田市・住田町を包括する地域です。2011年3月11日午後2時46分に発災した東日本大震災と約30分後に襲った大津波で甚大な被害を被りました。
KK2では、3月29日ボランティア事前講習会(NPO事業サポートセンター主催)が開催され、学生を中心に社会人が支えるITボランティア活動がスタートしました。時間経過の中で、学生・若者の熱い心を社会人・シニアが受け継ぎITボランティア活動が継続する中で、高齢化・過疎化が進む被災地に息づいている「困難に直面しても前向きに生きる力」に気付き、ボランティアメンバーが被災された方々の実体験談を傾聴し、この地域の「レジリエンス」について共に考え共に学ぶ活動へと進化しました。美しい自然と隣り合わせの災害大国の中で日本人が培ってきた「レジリエンス」と、日本という国・組織で明らかになる「脆弱性」。けせんの皆さまの語りの中から、「どうする?これからの日本と日本人」をお考えいただくヒントが掴めればと念じています。

ITボランティア活動

ボランティア事前講習会
新しい公共をつくる市民キャビネットは、3.11東日本大震災から十数日後KK2でボランティアを希望者向けに、ボランティアの事前講習会を実施した。阪神淡路大震災後より国内外の災害支援活動に取り組む村井雅清氏を講師に迎え、熱心な質疑を行った。

質疑応答「ボランティア事前講習会」


復興支援ITボランティア/被災地の自立とコミュニティ再生支援活動
学生が主役で社会人が支える復興支援ITボランティアの活動紹介。避難所の被災者に寄り添いコミュニティ再生を支援する継続的な活動が描かれている。仮設住宅運営支援員と連携、被災住民に対して一過性ではなく継続しておこなう活動が復興支援につながる様子が紹介される熱い活動の記録です。

地域の人々が当時のこと、復興への足跡について語る【収録日順】

3.11を風化させないために ~まごころ広場・まごころの郷のボランティア活動~
臼澤良一さんは大槌町沿岸部の自宅で津波に遭い九死に一生を得る。そして、避難所での家族との再会、震災の経験から学んだことなど、貴重な被災体験のお話です。3.11を風化させてはいけないという気持ちから各地で自らの体験を語り続け、復興支援に向けたボランティア活動を続けています。

3.11を風化させないために~被災体験と被災地の復興いま~
村上誠二さんは陸前高田市高台の中学校勤務中に被災、眼下の市街地は津波に呑み込まれ市役所からの緊急放送も途切れる。お住いの広田地区長洞元気村も大きな被害を被るも、集落の絆で助け合い自治をすすめる。仮設住宅も集落の家の並びと同じに整備しコミュニティの結束を高め、自助共助で復興への歩みを進める。ボランティアの支えでITや携帯電話を活かし、高齢者の多い集落のコミュニティ活性化と地域再生を目指す。


碁石地区のあの日あの時。そして、これから
1.あの日、あの時:3.11の現実を生々しく紹介。2.それから(1):集落の絆があればこその避難所での共同生活振り返り。3.それから(2):仮設住宅に分散、近助遠助援助の現在の生活に皆さん前向きです。4.そして、これから:高台移転と新しい街づくり、碁石地区への愛を感じる。5.復興計画案:夢多き碁石地区再生計画に感動する。碁石地区復興まちづくり協議会の大和田東江さん及川宗夫さんの講話。

「気仙ボケ一座」グローカルばあちゃんの あの日あの時、暮らしづくり街づくり♪
熊谷君子さんは永年岩手県気仙地区での地域包括ケア等福祉の第一線で活躍され、またグローカル集団「気仙ボケ一座」の一員として、気仙から世界へ呆けへの理解を進めてこられた福祉一筋の人生。一方ご自身のお住い含め38戸中34戸が全壊3戸が床上浸水し、集落の解散を経験された。地域に密着した福祉の復興と、仮設住宅生活では「日常がなければ非日常は乗り越えられません」と表現され、被災した時にこそわかる日頃のお付き合いの大切さを訴えられました。都会から来て聞いた者には、人生観が変わるインパクトのあるお話しでした。


3.11 東日本大震災 災害の体験からのくらしづくりまちづくり ~地域包括協同復興をめざして~
被災から一年経って見えて来た不安、(1)地域にできた見えない壁、(2)先の見えない住宅再建、(3)鬱や認知症の増加、(4)身体機能の低下、等変化する課題に向き合い、心のケアと地域サポート拠点の必要性から「居場所ハウス」設立に至る暮らしづくりまちづくりを語ります。

「鮮魚シタボ」村上勝弘さん富士子さんにお話を聞く
村上ご夫妻が切り盛りする「鮮魚シタボ」は、大船渡で水揚げされた海産物を仕入れ・加工・販売する。震災で自宅兼店舗とお嬢様も失い店を閉めることも考えたが、昔からのお客さん、震災後知り合った人、ボランティアできてくれた人等たくさんの人達の応援で再開。店をやることが俺らができる恩返しと明るく話され、碁石地区を訪れる多くの人が顔を出しお茶を飲み交流する小さなコミュニティスペースとなっています。


長洞元気村 村上さん 公認会計士 野田さん 対談
長洞元気村では復興再生を盛り上げて行くめんこい女性たちのことを「なでしこ」と呼んでいます。元気村仮設住宅集会場で始まった村上=野田対談は「ゆべし」を作るようになった経緯から始まり、時給400円の好齢ビジネスの話題から「一般社団法人」化に向けた元気村の確かな歩みへと発展し大いに盛り上がりました。野田さんからは、集会場の壁に貼られた長洞未来会議のマスタープランがとても素晴らしい「経営理念」として纏っているとの称賛の言葉があり、復興再生に向けてまったくぶれずに歩み続ける元気村の皆さんに応援メッセージがありました。

普門寺三十世熊谷光洋 住職の法話を聞く
市役所も流失した陸前高田市の高台にある名刹曹洞宗海岸山普門寺住職より、発災後の被災者、ボランティア、身元不明者の遺骨のお守りなどの寺とご住職の対応、これらの体験から思うこと、仏教の教えなどの法話をいただきました。また陸前高田「未来への記憶プロジェクト」五百羅漢制作・五百年コンサート、を芸術家の人たちと立ち上げた理由、そこから見えてきたまちの復興への手がかり、寺の役割とができること等のメッセージをいただいた。

講演「五百羅漢プロジェクトと世界レベルの風景、海産物」



生きるを考える ~私たちにできること~
高田病院前院長の石木幹人さんの講演。高田病院は津波により被災し患者と職員164人が屋上に避難し救助されたが25人は犠牲となりました。現在仮設病院で診療を続けています。 もともと「日本一高齢者にやさしい病院」を目指していましたが、 震災後は仮設団地への訪問診療や健康講演会を実施し、訪問時に職員が高齢者と一緒に農作業を行う「はまらっせん農園プロジェクト」にも取り組み、ネットで各仮設住宅の高齢者が農作物を競う等の活動が注目されている。高齢者同士が自助共助で支え合う自律した活動により、医療介護福祉の先進モデルをまず「気仙」で作り、それを全国へ世界へ広げようという魂の叫びが胸を打ちます。

質疑応答「生きるを考える ~私たちにできること~」


災害と復興計画・これから醸成したいこと・ライフワーク
「雪っこ」で知られる酔仙酒造は、1944年9月26日創業の老舗、海岸から2キロも離れた場所に位置していたが、瓦礫まじりの大津波によって木造4階建ての倉庫を含む全ての建物が壊滅・流失し、57名の従業員のうち7名が死亡する甚大な被害を受けました。しかし、被災4日目で復興を宣言し、震災後わずか半年で新しいお酒の醸造を開始し、わずか1年5ヶ月で新工場の建設を成し遂げました。どのよな場面にどう行動するべきか、日常からの意識向上と人間力が重要だと説明されました。


まっさき地域の近況と復興計画について
大船渡市末崎町には行政機関は無く、地区公民館がハブとなり発災後の地域の取りまとめを行う。まず末崎町内8ヶ所(峯岸・神坂・小細浦・細浦・小河原・門之浜・梅神・泊里)の防災集団移転の計画進捗について話があった。今のままの行政任せでは、ただ「高台に移転できた」「道路ができた」で終わってしまう。今後、例え年寄りだけの町になっても「住んで楽しい町になればよい」。その為にも皆で協力して末崎を考えていきたいと呼びかけた。

祖父の思いと碁石の未来を描く“海さんぽ物語”
昭和40年代末崎にも多くの民宿が開業、その内の一軒が大和田弘樹さんのおじいさんが開いた「ごいし荘」。朝早くから夜遅くまで働くおじいさんを見て育ち、調理師の資格を取り修行しながら寿司や料理をふるまう宿を目指していた。震災ですべてが流されたが、悩みながらも宿の再建へと踏み出す。津波に耐えられる8m土台を築き建て直し、安心して海に散歩に来てほしいと願い「海さんぽ」と名付ける。現在は、良い宿を作るために様々な工夫を凝らしているがまだ2割程の完成度と言う。理想を追い続ける取組みはこれからも続きます。


長洞元気村語り部による被災体験談「あの日、私は」
語り部は「まさこ先生」。昔、幼稚園の保母さんをされていたそうです。長洞集落は、「上組」(標高30〜35m)と「下組」(標高7〜10m)から成り立っており、大津波で下組の28戸が流されました。まさこ先生のお宅は海を見渡せる景観のよい場所でしたが、堤防を超えた海水がぶつかってきて、強い引き波で全部持っていかれたそうです。「見晴らしの良い一番好きな場所に家を建てて、幸せに暮らしていたのに、この歳になって、また家を建てなければならなくなった」「この先、どれけあるかわからないけど、また最初からやり直しだ」という言葉に、、、。

被災地長洞元気村のチャレンジ
はじめに、長洞元気村を全国に伝えたされた「NHKニュース深読み」の一部を紹介。番組を見たNPO法人復興まちづくり研究会がいち早く避難所に支援に駆けつけた紹介。次に被災者がみんな揃って暮らせる仮設住宅整備を市に要望するも「長洞地区のためだけに動くわけにはいかない」といった行政の対応を振り返る。仮設住宅の高齢者による携帯電話一斉メールの活用。長洞元気村未来会議の好齢ビジネスの具体的紹介。高台移転計画に関する取り組み等が熱く語られた。


長洞元気村なでしこ会の暮らしづくりとIT活用を学ぼう
長洞元気村は、平成25年度「あしたのまち・くらしづくり活動賞」の内閣総理大臣賞を受賞、行政に頼らないまちづくりと積極的な情報発信や視察受け入れで注目を集めています。「80歳になっても頑張ろう」を合言葉に、ゆべしやわかめなどの商品化、小中高生から国内外の大学生、行政や福祉施設職員まで多様な人たちの視察、ボランティア体験。語り部ガイドツアーの受け入れ、学びの機会提供に力を合わせて取り組んでいる「なでしこ工房」の様子や暮らしづくり、そして携帯電話やブログによるIT活用などを発表いただいた。

住まいと仕事、津波への備え
高台に住み今震災で難を免れた吉田力男さんによるお話しは災害への教訓という視点で示唆に富む。
(1) この地域の津波は親切な津波である。地震が起きてから30分後にやってくる。30分あれば逃げることは可能であり、命を落とすことはない。
(2) 自分のひい爺さんは明治16年から19年にかけて今の場所に家を建て泊里の平地から移転した。移転前の土地のあたりは明治29年の大津波に襲われ、家や住んでいた人たちは大きな被害を被った、その後、昭和8年の大津波のときも、今度の3.11のときも、そういう意味では、被害を受けて高台に移転した人、移転した人の後に住むようになった人、そしてまた被災する、ということが繰り返されている。今、高台移転しようとしている土地の多くは、縄文時代に縄文人が暮らしていた遺跡の場所である。縄文人は安全な場所に住んでいた。縄文時代は明治以降のように経済活動に暮らしが左右される社会ではなかっただろうから、経済活動に便利な浜の近くを集落にする必要もなかったかもしれないが・・・。
(3) 3.11の大津波で学校や病院、役所など重要な施設が被害にあった地域があるが、その点末崎は、保育園、小学校、中学校、公民館などがすべて高台にあったので被害を逃れている。そういう意味で末崎の先人は偉かったと思う。
(4) 自分たちは水(井戸)も食料(野菜やコメ)も燃料(木)も人の繋がり(近所、自治公民館)があるので、大災害にあっても家や地域として持ちこたえ、生きていける。都会はどうなんだ、大災害が起きたら生き延びることができるのか・・・心配だ。


復活した碁石海岸穴通船
地震に因る地殻変動で地盤が沈下し船着き場が使えなくなった。碁石の復興には、リアス式海岸の名所を小舟で巡る碁石海岸穴通船での観光客の誘致は必須。そこで生業のために船を再建した養殖漁業者に働きかけて、わかめ、昆布等の養殖漁業が一段落している7月~10 月の期間限定で遊覧船事業を行うことにした。1隻あたりの乗船定員は7人~8人なので40人規模のツアー客に対応できるまでに漕ぎつけ、ゴールデンウィークのテスト運行を経て、7月より営業再開した。本編は体験試乗の記録である。

「気仙ボケ一座」20周年記念公演
ユーモラスな寸劇を通じて地域に認知症の理解を広める活動を続けるボランティア劇団『気仙ボケ一座』。岩手県大船渡市にある認知症専門のグループホーム等を運営する社会福祉法人典人会の職員らが中心となり、平成6年に始まりました。247回目となる今回の演目は、●物忘れの違い●ごはん戦争●うんち戦争●徘徊騒動●精神余命(アルツハイマー病の告知)の5つ。楽しみながら、ボケの特徴・つきあい方を学べます。
【ボケないための十ヶ条】
一 趣味や楽しみ 生きがいを持って
二 何にでも関心を持って 感動を大切に
三 いくつになっても勉強しよう
四 仕事や役割を積極的に持とう
五 規則正しく メリハリのある生活を
六 食塩 食べ過ぎを避けて 成人病に注意
七 手足を動かし いつも元気でハツラツと
八 老いを受け入れ乗り越えて くよくよしない
九 多くの人と交流を
十 もの忘れは要注意 相談は早めに


好齢ビジネス長洞チャレンジ
「高齢」ではなく「好齢」ビジネスである長洞元気村のビジネスについてお話しをいただいた。復興支援にくるボランティアや視察者から、視点を180度変えてお金を取るボランティア受け入れ、視察受け入れを始めた。親御さんから「元気村行ってたている企業の方々の交流など、長洞元気村の活動を語っていただいた。

大船渡温泉は三陸復興に役立つ1000年続く事業
トーク編では、大船渡の一番いい場所をよそ者に買われるのが嫌で入手、温泉を掘り当て地域貢献事業を考えている最中に震災に遭遇。事業の目的は観光で人を集めることでなく地域の人たちの憩いの場作りであり大船渡の良さを発信することとし、大船渡温泉を創業。事業家、経営者の立場で大船渡の復興や地域貢献について語ります。質疑編では、質問(1) もし両親がご健在だったら、どんな大船渡温泉になっていたか?質問(2) 7~8年の東京生活が今の仕事にもたらした影響について?質問(3) 事業に「見切りをつけること」と、「あきらめないこと」の両立とは?質問(4) 大船渡温泉を作ろうと思った一番の要因は?質問(5) あなたは損益計算力はどこでまなばれたか?質問(6) 宿泊、宴会、銭湯のバランス?質問(7) 危機を乗り越える強さの秘訣?等にざっくばらんに応えます。

質疑応答編



住民参加で進めよう!医療連携と地域包括ケアのまちづくり
末崎町で唯一の開業医。細浦地区で被災された滝田医院院長の滝田有(たもつ)さんに、ご自身の被災体験や診療活動の再開、55年の半生を語っていただくとともに、松島神社をお御祭りしてきた14代目金山澤家について、また自身が代表理事をつとめる一般社団法人未来かなえ機構が進める医療連携、気仙地区の地域包括ケアついて思うところ率直に語っていただきました。

中森熊野神社式年大祭映像記録
末崎町碁石地区の中森に鎮座する熊野神社の4年に一度の式年大祭を収録した。、15日当日は未明から子どもたちの化粧や着付けの様子や碁石半島の日の出を撮影。本殿の神事や本殿前、泊里浜漁港広場で繰り広げられた各祭り組による虎舞、七福神などの奉納舞の披露、御神輿・神官・総代・御六尺(神輿をかつぐ人)らの行列繰り出しや御旅所(おたびしょ:神(神体を乗せた神輿)の休憩所)での儀式、海上渡御(神輿が船に乗って進むこと)と船上の神事、御神輿曳航船(9隻)の行列などを撮影した。